眼の前の、新八の顔を見て土方は眉を寄せた。やはりなとも思う。

頬はこけ、眠れていないのか目は血走り、時折何かを気にするかのように視線を彷徨わせる。

誰もいないのに、背後を怯えたように振り返る。

あのとき、背後から犯されていたからだろうか。

「お前、いくつだ」

土方が声をかけるとそれとわかるほどに新八の肩が震えた。・・・いらいらする。

ちっ、舌打ちが聞こえたのか、益々新八は縮こまったが、やがておずおずと蚊の鳴くような声で返事をした。

「16、です」

「犯られたのは初めてか」

「…っ、は、はぃ…」

ストレートな土方の言葉に、かくかくと震えながら新八は頷いた。

眼元には今にも零れ落ちそうなほど涙が集まりつつあった。

膝の上に置いた手がぶるぶると震え、嗚咽を堪えるように不自然な呼吸音が土方の耳に届く。

どうしろってんだ、土方は新八を連れてきた銀時に悪態をついた。

苛つきを表す様にくしゃりと髪をかきあげる。

そんな些細な行動にも、びくりと反応を示す新八に、ますます土方の苛立ちは募った。

肉体の傷より、精神的な傷は正直治りにくい。

こういう精神的外傷は、えてして時が癒してくれるものだ。

言い換えれば他人が何を言ったって、素直に聞き入れられるわけがないのだ。

本人が、自分の意思で乗り越えなければならない。

「す、みません、ちょっと…」

よろよろと立ち上がった新八が障子を開ける。厠にでも行くのだろうと声はかけなかった。

外で柱に寄りかかっていたらしい銀時が、目だけでちらりとこちらを見た。

そんなに心配ならお前が何とかしてやれ、そう思ったが銀時はすぐ視線を背けてしまう。

新八がふらふらと隣を通っても、声はかけようとしない。

ただ、その背を不機嫌そうに見送っただけだった。

小さくなった新八の背が、角を曲がって見えなくなったとたん銀時は土方を見た。

「…だめじゃん」

ぼそ、呟かれた銀時の言葉に、土方は怒りを隠そうともせずその銀髪を睨みつけた。

「うるせぇ、」

だったらお前が何とかしろ、言いかけた言葉は声にならず、土方はいきなりその場に崩れてしまうこととなった。

どすん、鈍い音と痛みに何が起こったのかわからず土方本人さえも、目を瞬かせる。

何が、と思う間もなく頭の中に、映像として春雨での出来事がリピートされはじめ、土方は悲鳴を飲み込んだ。

耳に、驚いたような自分を呼ぶ声が届いたが、それも耳鳴りにしかならなくて土方は回る視界を遮った。

 

うそだ、うそだ、うそだ。

こんなこと、あるわけがない。

気持ちが悪い、吐いてしまいそう。腹の奥が痛い。臓腑が腐っているのかもしれない。

「…っ、ぅえ」

かくかくと痙攣しだす腕を抑えようとしてみても、身体が言うことを聞かない。

だんだんと震えは酷くなり、土方の瞳は焦点を失っていく。

何かから身を守るかのように、小さく縮こまる土方に、銀時に呼ばれてやってきた真選組の面々が心配そうに手を伸した。が。

「や、さわ、なっ…」

途切れ途切れにだが抵抗の意思を示しながら、胎児のように身体を丸めて土方は震えている。

『鬼の副長』の、ありえない様子に真選組の隊士たちも手を出しかねてオロオロするばかりだった。

やばい、意識が。

ふぅ、と暗闇に吸い込まれていく意識に、土方はどうにか目を開いて抵抗しようとした。

真っ青になった新八が、目を見開いてこちらを凝視しているのが見えた。

 

やばい、土方は口許を抑えた。こんな姿を、あの子供に見せるわけにはいかない。

最近、ふとした瞬間に、腹の奥から悪阻がこみ上げてくるのを気のせいだと済ませていたツケが、土方を襲う。

そんなわけがない、こんなことでショックを受けているわけがない――思い出しているはずがない。

そうは思ってみるものの、それを吐き出してしまいそうになることが何よりの真実。

子供のように泣き叫ぶことも出来ず、縮こまったままの心を持て余す。

はやく、早く――何でもないといってやらなければ。

その思いを嘲笑うかのように、暗闇は土方の意識を攫っていった。

 

 

 

真選組の面々が気を失った土方を担ぎ上げ、布団に横たわらせるのをものもいわず、ただ新八は見ていた。

なんで、あの人が。

僕なんかよりもずっと強い、あの人が。

あんな―――

よろ、足を縺れさせた新八を抱きとめたのは銀時だった。

「帰るぞ」

「でも、ひ、土方さんが…」

「俺らがいたって何も出来やしねーだろ」

かくかくと震え、土方本人よりもショックを受けているような新八の表情に銀時は舌打ちした。

良かれと思ってしたことだったが、どうやら完全に逆効果だったようだ。

痩せてはいたものの、何時もどおりふてぶてしい顔をしていたから、油断していた。

だから、同じ目に遭った土方が平気なのだから新八も平気だとそう思わせてやりたくて。

気休めでもいい、一日だけでもいい。ぐっすりと夢も見ずに眠らせてやりたくて。

だから嫌がる新八を引き摺って此処まで来たのに、最悪の結果だ。

新八だけでなく、平気そうな顔をしていた土方までが。銀時は歯噛みした。

大丈夫だと必死に自分を誤魔化していた心が、ついに耐え切れなくなったとそう言うことなのだろう。

なんでもない、と思い込もうとしていたのに目の前にやってきた同じ境遇の子供を見ていたら、

その時のことがまるでシャワーのように、頭の中に降り注いでパニックになってしまったようだった。

本人すら気付こうとしなかった傷が、壊れそうになった心ごと飲み込んで、その防衛本能が意識を失わせたのだろう。

「トシ!」

足音を響かせながら駆けてくる近藤に、銀時は小さく謝罪した。

その声は近藤には届かなかったけれど。

 

 

次の日。

新八は真選組屯所の前に一人、立っていた。

外に出るのは恐ろしかったが、昨日の土方の様子が気になって仕方がなかったのだ。

まるで何もなかったかのように接していたはずの土方は、新八が気分が悪くなり外の空気に当たっている間に倒れた。

心配した隊士たちが口々に名前を呼んで手を差し伸べても、怯えきって拒絶していた。

そんな土方を見せまいとした銀時に連れられて、屯所を後にしようとした時に局長である近藤とすれ違った。

新八の姉であるお妙のストーカーでもある近藤は、酷く真剣な顔をしていてすれ違った新八にも気付かなかった。

そのとき、銀時が小さく口にした謝罪の言葉は、近藤には聞こえなかっただろうが、新八の耳には届いていた。

なんで、銀さんが謝るんだろう。

そうは思ったが、混乱した思考ではその疑問を口にすることは出来なくて、ただ引き摺られるように万事屋へと戻った。

そのまま気を失うように眠りについて、意識を取り戻したのはまだ朝方。

薄暗い朝もやの中、新八は追い立てられるように万事屋を後にしていた。

とにかく土方に会わなければ、ただそれだけを考えていた。

 

こんな時間に訪ねるのは非常識だろうという意識はあった。だが、いてもたってもいられなかったのだ。

屯所入り口に人は立っておらず、新八はおそるおそる屯所内に足を踏み入れた。

しん、と静寂に包まれた庭を通り、昨日通された土方の部屋の前に立つ。

少しだけ逡巡したが、草履を脱いで縁側へ上ったところで障子の内側から声が掛かった。土方の声だった。

 

寝ていないのだろうか、突っ立ったまま新八は土方を見た。

うっすらくまの出来ている目元を隠すように、土方は俯き、新八に座るよう促した。

暫らくの沈黙の後、先に口を開いたのは土方だった。

「俺は、10の年だった」

「え…」

何のことかわからない新八を他所に、土方は言葉を続ける。

「相手は、浪人だった。泣いても叫んでも誰も助けてくれなかった。

痛くて痛くて、悲鳴を上げたら首を絞められて。もう死ぬ、とまで思った」

そっと自分の首筋に土方は触れた。しばらく絞められた痕は消えなくて、母親に泣かれた。

怖くて、大人の男に近づくことも出来なくなった時期もあった。

「・・・・」

「俺は子供だったし、力がなかったからこんな目に遭うんだと思った」

「・・・・」

意味を知り何も言えなくなった新八を一度だけ見て、土方は小さく自嘲するように呟いた。

「だから、大人になったら怖いものなんてひとつもなくなると思ってた」

はは、頼りなく笑う土方は今まで見たことのない顔をしていた。

どんなに酷い目に合わされても伏せられることのなかった瞳は、今は睫毛に隠れ新八には見えない。

「ショックだった、んだろうな。大人になったのに、こんなことで動けなくなる自分が」

はっとしたように、新八は土方を見た。しかし、やはり土方は俯いたままだった。

ショックなのは当たり前だ、新八は思う。大人だろうが子供だろうが、理不尽な暴力に違いはない。

口を開こうとした新八を制して、土方は言葉を続けた。

「お前は泣いてもいい。子供だから。でも」

はぁ、ひとつ辛そうに息を吐いて土方は両手で顔を覆う。見られたくないのだろう、新八に背を向けて声は音を紡いだ。

「俺は、大人で。警察で。人も殺してて。斬られて、死にかけたことだって、あったのにっ…!」

怖かった。たまらなく怖くて、泣き叫びたかった。やめてくれ、と懇願したかった。

多分新八があの場にいなかったら、みっともなく喚き散らしただろう。

ぎゅう、と握られた拳から、ひとつ、滴が土方の膝に落ちた。

 

 

 

「…ごめんなさい、土方さん」

いいんです、泣いてください。僕、見えませんから。

新八は床に膝をついて、土方に近づいた。

顔を覆った両手ははずされはしなかったが、びくりと眼の前の青年が身体を震わせたのが、はっきりと新八にはわかった。

「僕がいたから、泣けなかったんですよね。僕が泣いたから、落ち着いた気になってしまったんですよね」

酷い仕打ちに気絶してしまっていたから、土方がどんな目に遭わされたのかは新八は知らない。

けれど、自分と同じくらい、もしかしたらもっと酷い目に遭わされていたのかもしれない。

自分はただの無力な子供だったけれど、土方はまがりなりにも警察だ。

その土方に犯罪者たちがよってたかって何をしたのか。想像するだけでおぞましい。

 

あなたの代わりに泣いてあげられたら良かった。でも、それじゃいけないから。

嗚咽を堪えようと、不自然な呼吸を繰り返す土方の肩に手を伸ばす。驚かせないように、そっと、優しく。

少し震えて、けれど拒絶はしない土方に、そっと微笑んで。新八はその背中に己を預けた。

僕はもう、目が溶けるくらい、涙が枯れるくらい泣いたから。

だから、今度はあなたの番。

今度は僕が、少しだけ大人になるから。

「僕、今何も見えないし聞こえませんから。だからどうか…少しでも」

 

小さな少年の己の背に抱きついてくる温もりを、土方は感じた。

この体温は、怖くない。ぼんやりと土方は思う。

子供特有の高い体温が、土方の凍えきった心を溶かしていってくれる気がした。

溶けた氷が溢れ出るように、土方の黒い瞳から涙が零れ落ちていった。

 

 

どのくらいの時が経ったのか。気付けば新八はいなくて、外は夕闇が迫っていた。

何であんな昔のことを告げる気になったのだろう。ぐす、洟をすすり土方は赤く腫れあがった眼元を拭った。

十ほども離れているだろう子供に慰められてしまった。

「…かっこわりぃ」

子供の前でみっともなく泣いてしまった。自分が慰めるべきであったのに。

少しだけ情けなくなりながら、土方はひとりごちた。

「安心してくだせィ、土方さんは自分が思ってるほどカッコよくありやせんから」

誰もいないと思い呟いたのに、障子越しに返事が聞こえて土方は顔を真っ赤に染めた。

「!!てめぇ、総悟!」

殴ってやろうと立ち上がり、障子を開けて再び土方は言葉をなくしてしまうことになった。

「な、なっ」

そこには沖田だけでなく、真選組が勢ぞろいで縁側に座り込んでいたのだった。

「お、おまえらっ、なんでっ」

ぱくぱくと口を開くが、混乱のあまりきちんと疑問を口に出来ない副長の代わりに、隊士たちは口々に言う。

「だって、俺たちも心配だったし」

「新八くんも副長も子供だからね〜」

「いっそどこかに行っちゃおうなんて思われたら困るし」

ねぇ?大勢の目に射抜かれて土方は言葉を失った。

けれど、どうにか反論してやりたくて、黙り込んでいる近藤に標的を移す。

「近藤さんも近藤さんだ!なんでアンタまでっ」

「俺ぁ腹立ててんだ」

喚くのを遮って、きっぱりとそう言いきった近藤に、土方は困惑した。

確かに迷惑をかけたと思うとそのまま黙り込むしかない。

近藤は立ち上がり、目線を同じくして土方を覗き込む。

「……」

「お前な、苦しいなら他人じゃなくて俺に言え」

「……ぁ」

「とはいってもお前素直じゃねぇから無理か」

「…うっせぇ」

不貞腐れたように、目を逸らした土方の髪を近藤はかきあげた。

しばらく見ていなかった黒曜石のような瞳が涙に濡れて光っている。

それを見られたくないのか、手を振り払おうとする土方の手を怯えない程度にそっと掴み、

安心させるかのように近藤は撫でさすった。

「何がどうなったって、トシはトシのままでいりゃあいいんだ」

「そうですよ、土方さん。アンタが大人しいと気持ち悪いでさァ」

「…気持ち悪いだけ余計だ」

憎まれ口をたたく沖田に小さく反論し、顔をそむけたまま土方は口許を緩めた。

近藤に触れられている手が、暖かい。

――もう、胸の奥の痛みはおさまっていた。

 

 

 

 

「…何してるんですか?」

万事屋へ戻った新八の目の前には今、銀時がいる。ドアの前にだらしなく座り込んで。

まるで道端でタバコすってるヤンキーみたいだなぁ。

そんなことを思いながら疑問を口にした新八に、銀時は不機嫌そうに目を向けた。

そう言えば何も言わずに出てきてしまったのだったな、もしかして心配をかけてしまったのか。

そう気づき謝罪の言葉を口に乗せようとした新八だったが、銀時の台詞の方が早かった。

 

「…おけぇり」

 

不機嫌そうな、けれど掠れた銀時の声に、新八は息を呑んだ。

心配かけてごめんなさい、ありがとう。幾つも言葉が生まれて消える。

泣きそうになるのを堪えて、新八もやっと言えた。

 

「只今戻りました」