必ず迎えに来るからね、ここを動いちゃ駄目よ。
ね、新ちゃん。そう穏やかに新八を安心させるかのように微笑んだ姉は、未だ戻ってこない。
攘夷派が暗躍し、世は乱れに乱れていた。争いは、昨日までの暮らしを消去し、今日の命を危うくする。
そして明日の生活を――滅ぼしていく。新八は嫌というほどその様子を見ていた。
目の前で人が死に、焔が新八の前髪を焦がしても。
もう幾日、姉であるお妙の姿を見ていないだろう。そんな感傷も心の中に浮かび上がってこない。
ここを動いちゃ駄目。その言葉だけが新八をここに繋ぎとめ、命すら永らえさせていた。
死ぬまで、死んでもきっと、新八はずっとここにいると決めていた。
声をかけられた気がした。
ずっとずっと、下を向いていたから頭がすごく重く感じた。
「…落ちてんの?」
銀色が、見えた。
今日も今日とて日が昇る。僕は生きている。
「あのなあ、新八!何度言ったらわかるんだよ!」
びくりと新八は肩をすくめた。怒鳴っている相手の気持ちは痛いほどわかるから。
「俺たちは命かけてんだ。失敗なんてありえねぇんだよ!」
そう、何度も言われている。それでももともとが不器用な性質なのか、新八は常人よりも覚えが遅かった。
どうにかしようと新八なりに頑張っているのだ、それでもできない。
命を懸けている相手にそんなことを言っても仕方がない、できない己が悪いのだと重々承知している。
だから新八は、怒鳴られようと殴られようと、一度も反論などしたことがなかった。
それがまた、怒鳴っている相手の神経を逆なでしていることに気づけもせずに。
目の前の男が腕を振り上げたのが見えて、また殴られるんだな、とぼんやり思ったとき。横から伸びた手がその腕を掴んだ。
「はい、そこまでね」
「っ、銀…」
止めた相手の姿を見て、男はぎくりとした表情をあらわにした。いつの間にここにいたのだろう、新八もぼんやりと銀髪を見る。
「殴ったらますます馬鹿になっちまうだろーに。それにな」
ふん、鼻を鳴らし銀時は男を見た。
「命張ってんのは新八だって変わんねぇだろ」
「っ、でもっ」
何か言いたげな男だったが、銀時に逆らう愚行は起こさなかった。何しろ白夜叉とまで恐れられている男だ。飄々としているが、その恐ろしさは知りすぎるほど知っていた。
渋々と引き下がった男を避けて、銀時はその場に固まったままの新八に声をかけた。
ぴく、肩を揺らしておずおずと銀時を見上げる瞳には確かに怯えが見て取れるのに、それでもどこか現実感のない表情で、新八は自分を気にかけてくれる男を見上げる。
「お前も気にすんな。また頼むから」
「…はい」
「んっとにお前はしゃべんねぇな。もっとさ、痛いとか嫌だとか言ってみな。殴られんのが好きなわけでもないだろうに」
「…はい」
いつもどおりどこかぼんやりとした新八の瞳に苦笑し、銀時はその目を覗き込む。
まっ黒い綺麗な瞳は、どこか焦点を結ばずゆらゆらと宙を彷徨っていた。声をかけたときからそうだったなと銀時は溜息をついた。
数年前、銀時も無事ではすまなかった酷い戦いがあった。攘夷派と政府の戦いだった。それは今でも続いている。
命をとられるほどではなかったが、銀時の身体のいたるところに細かな傷が今でも残っている。
戦場となった街は壊滅し、男たちは殆どが散った。そんな、血の匂いや腐臭が漂う壮絶な状況の中。
そこで、銀時は新八に会った。
新八は、泣き叫ぶ母親や、母を呼びふらふらとさ迷い歩く子供たちを横目に、ただぼんやりと道端に座り込んでいた。
何が起こったのかわからないというよりも、もうずっと前からそこにいたかのように。
なぜか、目が離せなかった。仲間たちが呼んでも銀時は、そこに突っ立っていた。
何をしているんだ、聞かれても銀時は応えられなかった。
「どうした」
もしかして怪我で動けないのかと危惧したらしい桂が隣に立ったのに、ようやく銀時は目線を向けた。
何を思ったわけではない。けれど銀時の口は無意識に音を発していた。
「あれ、落ちてんの?」
今思えば、つい拾ってしまったということなのだろう。
呆れたような表情の桂を尻目に、銀時は新八に声をかけ、頑として動こうとしない子供を半ば強制的にその場から連れ出した。
可愛そうだと思ったわけではない。周辺にはそんな孤児たちはたくさんいた。ただ目が放せなくなった。
顔立ちだって十人並みだし、女というわけでもないのに・・・その理由は今だわからないが。銀時は目の前に立つ新八を見た。
もともとそう大きい方ではない新八は、攘夷派の荒くれどもに比べたらドーベルマンの中に放り込まれたチワワのようなもので。
役立たず、口さがない連中は面と向かって新八を罵ったが、それにも悔しそうな様子すら見せなかった。
剣を習ったことすらないであろう腕は細く、本来少年らしく伸びやかなはずの肢体はいつもどこか硬く縮こまっている。
目を覗き込んだって、新八はぼんやりとしたままだ。普通無意識にでも逸らすものだと思うのだが。
そこではた、と気づいた。
何故今までわからなかったのだろう。
「もしかしてお前、目が」
ぼんやりとした瞳が瞬いた。
「結構高いもんなんだなぁ、メガネってのは」
どうだ、見えるか?問われて新八はがくがくと頷いた。こんな高価なもの、買ってもらう理由がないのに。
断ろうとしたが、あれよあれよという間に銀時に腕を引かれ、店の中へ連れ込まれていたのだ。
「見、えます」
「そっか、俺のかっこよさもわかるか」
「はい」
「…まじめに答えられると銀さん、困っちゃうなあ」
新八は苦笑のような笑みを浮かべる銀時の顔を、初めて鮮明に瞳に映した。
別にお世辞じゃないのに、そう言いたいのは山々だが口から言葉が出てこない。
「すみ、ません」
「謝られたほうが傷つくってーの」
「すみま…」
「あー、はいはい。そうじゃないでしょ」
放って置いたらいつまでも謝罪し続けそうな声を遮って、銀時は俯き加減の少年を覗き込んだ。はっとしたかのように新八が顔を上げる。
やはり、目が悪かったのか。銀時は気づかなかった己を恥じた。
もともと口数は多くないし、殆ど世捨て人のようになっていた新八をここに連れてきたのは銀時だ。
何が起こっているのかを理解するのにも時間がいったろうし、目が極端に悪いことを言えなかったとしても不思議ではない。
そもそも、見えないことが新八の普通だったのだから。
そんな状態で、攘夷派の命がけの仕事を手伝わせたって、上手くできるわけがない。
五体満足の奴らだって簡単に命を落とすのだから。そこまで考えて銀時は背筋を震わせた。
もう少し気づくのが遅かったら、新八は誰にも何も言わずおとなしくただ、死を受け入れていたに違いない。
「ありがとう、だろ。銀さんが新八のために買ってやったんだからな」
「…あ、りがとうございました」
「おし、大事にしろよ」
「はい」
潤んだ綺麗な、黒い瞳に見つめられて少しだけ気恥ずかしくなって、銀時は鼻を掻いた。
その目が自分を真っ直ぐ映すのが、照れくさくて目を逸らす。
「しかしお前。その目で今まで良く生きてこられたな」
照れ隠しについ出てしまった言葉だった。たいして深い意味で出たわけでもない。だから一瞬新八の表情が強張ったことに銀時は気づかなかった。
「…姉が」
固い口調に、銀時ははっとして新八を見た。黒い瞳は俯いてもう銀時を映してはいなかった。
「姉が、守ってくれてたんです」
その言葉が過去形なのに、銀時は舌打ちしたくなった。きっと思い出したくなかったに違いないのにと。
あんな場所でぼんやりと、危機感もなく座り込んでいたのだ。周囲には女の死体もなかった。
捨てられたのか、それとも本当は迎えに来るつもりだったのかはわからないが、新八はあそこでずっと姉を待っていたのだろう。
襤褸切れのような服をまとい、傷だらけの痩せた身体を抱えただひたすらに。
気の遠くなるほど長い間、疑うことなく。
「…そうか、強い姉ちゃんだな」
「はい」
迷って、どうにかそれだけ言った銀時に、躊躇わず新八は頷いた。少なからず銀時は驚く。そして唐突に理解した。
そうだ、こいつは新八は。
「そんな姉ちゃんの弟だからお前も強いんだな」
ぽん、新八の頭を撫で銀時は微笑んだ。怪訝そうな表情の新八に構わず乱暴なしぐさで髪をかき回す。
嫌がる新八をふざけて抱きしめ、その確かな体温に銀時は溜息を漏らした。
今度は抵抗する様子を見せない新八に、たまらなく安心する。
疑わないのは、強い証拠だ。ただ単に疑うことをしらない馬鹿なようにも思えるが。
それでも銀時は、いつ寝首をかかれるか知れない時代にそんな綺麗なままの新八が羨ましかった。
どんなに汚い服を着ていても、息をしているのかどうか怪しいようでも。
あのときの新八は、銀時の目を惹きつけてやまなかったのだ。この綺麗な生き物が欲しいと思ったのだ。
「新八、もしさ」
「はい」
「この戦いが終わったら…いや、いいや」
終わったら。もし、その時お互い生きていたら。今度はお前の目に映るものを見せてくれ。
言いかけて銀時は首を振った。言ってもきっと、新八は困惑するだけだろうから。
「戻ろうぜ、そろそろヅラが喚きだす」
「あ」
来たときのように、腕を引いて歩き出した銀時に、新八は小さく戸惑った。
もう、メガネがあるから手を引いてもらわなくても大丈夫です。
咽喉まで出かかった言葉を飲み込んで、新八は銀時の歩調で歩き出す。
いつもより幾分ゆっくりとしたそれは、自分を思いやってのことだと今更ながら気づいて、新八は無意識に口元を綻ばせた。
それは、俯いてしまっていて誰にも見えなかったけれど、見るものがいたらつられてしまうほどに柔らかな笑みだった。
「やばい、逃げろ!」
悲鳴のようなその声に、蜘蛛の子を散らすかのよう攘夷志士たちは逃げ出した。
周到に用意をしていたはずだった。それなのにどこからか情報が漏れていたのだろうか、政府の犬と呼ばれる警察――真撰組――に取り囲まれ。
そこここで戦闘が始まってしまったのだ。捕まるまいとする攘夷派と捕らえようとする真撰組。
悲鳴と怒号が空へ吸い込まれ、血の匂いが周囲を満たした。
「ちっ」
舌打ちし、銀時は目の前の敵をなぎ払った。自分の髪は目立つせいか、さっきから引っ切り無しに敵が沸いて出る。
頬にかかった生暖かい血を乱暴に拭い、銀時は周囲を見回した。そろそろ逃げ出さないとまずいだろう。
「うぁ!」
右足に酷い痛みを感じ、銀時は膝をついてしまった。どうやら撃たれたらしい。じくじくとした痛みが傷口から広がっていく。
しくじった、思う間もなく一人の男が姿を現した。かなり興奮した様子で銀時を見ている。
「や、やった、俺が、俺が白夜叉をっ」
突きつけられたままの銃口に、銀時は逃げる算段を巡らせたが、失血のせいか上手く頭が回らなかった。
終わりか、あっけないもんだ。ただそう思った。
目の前の男に飛び掛る、黒い影を見るまでは。
「…っ!」
目の前の光景が信じられなかった。新八が、あの子供が銀時を庇って敵に掴みかかったのだ。
必死の形相でまだ熱いだろう銃筒を握り、敵ともみあっている。
新八、叫びかけた銀時の腕をとる者がいた。振りほどこうとした銀時を乱暴に車へ押し込み、ドアを閉める。
「ヅラ!!」
ハンドルを握る桂に掴みかかり、足の痛みも忘れ銀時は降ろせと叫んだ。
このままでは新八が置いていかれてしまう。いやだ、それだけはいやだ。
しかしそんな銀時を一瞥もせず、桂は騒ぐ銀時の首筋を手刀で強く打った。
小さく呻き、血の足りない銀時はあっさり昏倒してしまう。
「…すまない」
次の瞬間桂の足は、思いきりアクセルを踏み込んでいた。
背後で銃声が響いた。
傷の所為で熱を出し、銀時は立ち上がることすらできず3日寝込んだ。
熱も下がり、どうにか自分で歩けるようになった銀時の元へ桂が気難しい顔でやってきて頭を下げる。
謝る必要なんかない、謝罪する桂に銀時はそう返した。
あの場面ではああするのが当たり前だと。
「桂、悪いついでに俺の我侭一個きいてくれよ」
静かな湖のような瞳で、銀時は桂を捕らえた。小さく溜息をつき、桂は力づくでもきかせるくせにと悪態をつく。
「真撰組屯所内の牢だ」
捕まった新八の居場所を既に桂は掴んでいた。絶対に銀時がそう言い出すとわかっていたからだ。
血まみれの包帯を替えながら、既に銀時の瞳は白夜叉のときのそれになっている。
「…絶対に取り戻す」
こいつが味方で本当に良かった、背に冷たい汗を感じながら桂はひとりごちた。
牢に忍び込むのはあっけないほど簡単だった。
迎えに来ると思っていなかったのか、驚愕の表情で新八は銀時をむかえた。
辛うじてメガネは無事だが、口元や瞼が赤黒くはれ上がり、見るも無残な様子だった。
新八はきっと逃げ出すそぶりすら見せなかったのだろうに。それどころかきっと与えられた暴力すら甘受して。
「何で…」
新八の小さな呟きに、銀時はなるべく安心させるよう笑みを作った。
「鍵はどこだ?誰が持ってる?」
「…あ」
「すぐに出してやるからな。ちょっと待ってろ」
ずくり、右足の傷は痛んだが銀時は微笑んだまま新八の返事を待つ。しかし。
「誰も頼んでません」
思いがけない新八の拒絶に、銀時は固まった。
「僕、もうあそこに戻るつもりはないです。帰ってください」
「新八?」
「冗談じゃない、あんな所。それに僕、もう言っちゃいましたよ。貴方たちの本部の場所」
今頃きっと、大変なことになってるんじゃないですか――似合わない笑い方で新八は口端を上げた。
これでいいんだ。
膝を抱え、新八は震えそうになる身体を押さえ込む。
ぶわ、と膨れ上がった銀時の怒りはすさまじいものだった。
射殺すような目で新八を睨みつけ、踵を返した。
「…いいんだ、これで…いい」
怪我をした身で、役立たずの自分を助けに来るような人だ。優しい人だ。
だから、死なないで欲しいから。自分なんかのために心を惑わせないで欲しいから。
少しでも――永く生きて欲しいから。
がたん、大きな音に新八は肩を震わせた。今日も、始まる。
のろのろと顔を上げれば、新八の尋問を任されたのであろう男たちが嫌な笑いを浮かべて牢を覗き込んでいた。
私刑のようなそれは、新八の身体を苛んではいたが、口を割らせるまではいたらず男たちは少々いらだっているようだった。
「よう、今日こそ吐いてもらうぜ」
新八は目を閉じた。何も怖くない。何も感じない。
だってもう、失くすものなんて何もないんだから。
もう何度殴られただろう。口の中は血の味で気持ち悪いし、鼻も血の匂いがする。
ぐったりと地に身体を投げ出し、それでも悲鳴すら上げない新八を男たちは足蹴にした。
メガネはとうに飛ばされ、覚束ない視界で新八は世界が回るのを感じた。
「…これ以上やったらまずいか」
殆ど意識のない新八を足の先でつつき、一人が言った。
「けどよ、今日も吐かせられなかったってのもまずいだろ」
「だったら…」
何事かぼそぼそと相談していたかと思うと、男たちは新八を仰向けにした。
ぱしゃ、コップに入っていた水をかけられ、新八の意識がぼんやりと覚醒する。
「こういう手も、ありだろ?」
男の足が、新八の足の間を嬲るようにすりあげた。
「反応しねぇんだ、こいつ」
「白痴か?」
耳に入ってきた男たちの声は遠い。どう考えても友好的でない行為に新八は吐き気を覚えた。
「とにかくやっちまおう、副長にでも見つかったらことだ」
ビリリ、着ていた服を破かれた途端、新八の記憶は弾けた。
そうだ、あの日。戦いで街が焼けた日。
僕は―――直前まで街の人たちに、犯されていた。
「…あ、アァァァァァア!」
いきなりの悲鳴と共に暴れだした新八を、男たちは遠慮のない力で抑え付ける。
その日と同じ、乱暴な手つきで新八の自由を奪い、破れた服を剥ぎ取り素肌に手を這わせて。
「やーッ、い、ひぃっ、やだぁぁ!」
「おお、こうでなくっちゃな」
「興奮させてくれるぜ」
お腹がすいてたんだ。
何か食べさせてくれるって、言ったから。だからついていったんだ。
お腹がすいて、もし死んじゃったら姉上との約束が果たせないと思ったから。姉上が悲しむと思ったから。
だから…
「や、ぁ!」
指で中を弄られ、新八の身体が跳ねる。どんなに嫌がっても、どんなに泣いても許されることはなかった。
悲鳴と嗚咽が咽喉をふさぎ、呼吸すら困難になる。
しかし意識を失いかけると、水をかけられて無理やり起こされた。
『何だよ、初めてじゃないんならあまり効果ないんじゃねぇの?』
『ぶってんじゃねぇよ!どうせ攘夷派連中の女だったんだろうが!』
違う違う違う…貫かれ、揺さぶられながら必死に新八は否定した。
ぼろぼろと零れる涙が頬をぬらし、床に水たまりを作った。
「ひっ、あ、あ、あ」
快楽などひとかけらも感じない。内側から壊される恐怖に、新八の精神も限界を感じていた。
耐えられないからきっと、忘れていたんだ。
あの日、戦いが始まって、自分を犯した男たちが殺されていくのを路地裏でずっと見ていた。
恐怖は感じなかった。ただ綺麗だと思っていた。
飛び散る紅と、その中心で舞う銀色が。
真撰組副長の土方だ。黒髪の男はそう名乗った。
「悪かったな、逃がしてやるから勘弁しろ」
このまま嬲り殺されるのだと思っていたのに、新八はあっさりと釈放を言い渡された。
聞こえた言葉が信じられなくて、新八は俯いていた顔を上げた。途端、痛みがぶり返して小さく呻く羽目になってしまったが。
タバコをくわえながらその様子をただ見ていた男は、新八が落ち着いたのを見て取ると。
「今、躓くわけにはいかねぇんだ。お前を嬲った奴らは処分するから誰にも言うな」
表情は変わらず苦々しげだったが、思いがけず優しい口調で告げた。
口封じにと殺してしまうほうがどれだけ真撰組にとって安全だろうに、土方は逃がしてくれるとそう言っているのだ。
「何で…」
「んだよ、出たくねぇのか」
「いえ、でも」
帰る場所なんて、ないから。呟いた新八に、土方は大きく煙を吐き出した。
「…いいじゃねぇか。一回死んだつもりでやり直せ」
迎えに来た銀時のことを知っているだろうに、土方はそのことを口にしなかった。ただ、新八の去り際に一言だけ。
「もしお前がまた俺の敵として目の前に現れたら、今度は斬る」
そう、口端を上げてにやりと笑った。
「メガネ、壊れちゃったな…」
大事にしろ、笑っていった銀時の顔が脳裏によぎる。初めて見た、命の恩人の顔だった。
会いたい、会って生かしてくれてありがとうって言いたかった。
けれど、新八は一番酷い方法で銀時を拒絶してしまった。今更受け入れてもらえるなんて思わない。
それどころか裏切り者として、殺されると考えるほうが妥当だろう。
それでも、生かしてくれた相手に殺して欲しいと願うのは、傲慢なことだろうか。新八にはわからなかった。
自分に尾行がついているとは思わなかった。そんな男ではないだろうと何故か新八は土方をそう理解した。
のろのろと、でも着実に攘夷志士たちの本部へと足は近づく。手には、壊れたメガネを持って。
半日ほど歩き通し、ようやく見覚えのある建物の前にたどり着いた。
何を考えていたわけではない、もう一度銀色が見たくてドアに手をかける。
「しっかし、新八でよかったよな。他の奴、まして銀時さんだったりしたら俺たちは終わりだ」
「まったくだ、厄介払いもできたしな」
はは、軽い笑い声に眩暈を覚える。当然の報いだ、と新八は自分を叱咤した。
どうにかその場に崩れることだけは堪えたが、そんな新八の耳に聞こえてきたのは、懐かしくそして。
「銀時さんもそう思いますよね」
「…ああ」
冷たい、銀時の声だった。
かちん、壊れたメガネが新八の手から滑り落ちて乾いた音をたてた。
役に立てている、なんて自惚れていたわけではない。
「やっぱり、駄目なんだ…」
迎えに来るからといった姉は戻ってこなかった。
戻って来いといった銀時にはうっとおしがられていた。
きっと、銀時にとって自分はペットのようなものだったのだ。はいはいと、役には立たないが従順な愛玩動物。
しかしそのペットは銀時に噛み付いて遠ざけた。だから、もういらないと――そういうことなのだろう。
「本当に…もういらないんだ」
姉上も銀時もいらないって、いなくなった。
僕も――もう、いらない。自分なんか。
うつろな瞳でよろよろと新八は歩いた。早く、いろんなものから遠ざかりたかった。
「…新八?」
ふらふらと建物から出てくる新八を、桂は目にした。なんだ、やはり帰ってきたのか。
銀時の拗ねる様子を思い出し苦笑を頬にのせる。まったく、ようやくあの男の機嫌も直るだろう。
「何もすぐに外に出すこともないだろうに」
新八が帰ってきたら、絶対に銀時が放さないだろうと思っていたが。からかってやろうと桂は足を早めた。
新八の背は、だんだん小さくなっていく。
結局本部の場所を暴露したという新八の言葉は嘘だった。
だが、あの時救いを拒んだ新八は、本気だった。
本気で銀時を拒絶し、手ひどく罵った。
拾われず野垂れ死んだほうがましだった、そんなことまで口にした。
自分なりに可愛がっていたつもりだった。もし、この戦いが終わったら、新八を連れてどこか遠くに行ってもいいとまで考えていた。
銀時にとって、あの新八の拒絶は筆舌しがたいほどに辛いものだったのだ。
それなのに。
ぎり、唇を噛んだ銀時の様子に、仲間たちは目配せをして隣の部屋へ移った。
最近の銀時は、機嫌が悪いのを知っていたので。
しばらく静かな部屋で座り込んでいた銀時に声をかけてきたのは、桂だった。
「まったく機嫌が悪いのは構わないが周囲に悪影響を及ぼすな」
「…うるせぇ」
拗ねたようにそっぽを向いた銀時に苦笑を返し、桂は少しだけ慰めてやるつもりで口を開いた。
「お前と新八は似てるよ」
びく、銀時が動揺したかのように肩を震わせた。それに構わず桂は言葉を続ける。
「お互いがお互いを心配して、自分のことは棚の上に上げて無茶をする。その中に俺たちも入れやがれ」
お前が撃たれたとき、俺が止めるのを無視して突っ込んでいった新八も新八だし、怪我も治りきらないうちに敵陣のど真ん中に忍び込んだお前もお前だ。
「…?新八が?」
「何だ、聞いてないのか。そうだ、あんなに弱そうなくせにな」
ふふ、小さく笑い桂は袖に入れてあったものをテーブルに置いた。
それを見て銀時の目が見開かれる。
かちん、硬い音を立てて置かれたのは、ヒビの入った見覚えのある。
「レンズを入れ替えれば使えないことはないだろう。落とすなんてよっぽど慌てていたんだな」
「…ど、こで…」
「うん?入り口に落ちていた。しかし帰ってきたばかりだというのに、お前らも冷たいな。ゆっくりと休ませてやればいいのにすぐに外に」
「……っ!」
がば、勢いよく立ち上がった銀時に話の腰を折られ、桂は不満げにその顔を見あげたが、その怒りはあっけなく霧散した。
立ち上がった銀時が、酷い顔色で入り口を睨みつけていたからだ。
「…新八と、会ってないのか?」
「……」
「追わないのか?」
「追うに決まってんだろ!!!」
言うなりテーブルを飛び越え、ドアに悲鳴を上げさせて銀時は飛び出していった。
「あの…桂さん」
おずおずといった様子で声をかけてきた数名の部下から話の成り行きを聞き、桂は溜息をついた。
「すみません、俺たち銀時さんに元気になって欲しくて」
本意ではなかった。ただ、銀時の元気のなさに新八が関わっていることはわかったから。
まさか本人が聞いているなんて思いもせずに。
「俺に言うな。謝罪なら本人にしろ」
しゅんとなった部下を前に、桂はのんびりと茶をすすった。銀時が何とかするだろうと信じて。
雨が降ってきた。それに新八の身体は冷やされ痛んだが、もう本人には痛いのがどこ何だかわからなかった。
心が痛いのか、傷が痛いのか。
泣いているのか、雨の雫なのか。
どうでもいい、もう。
人気のない路地裏に座り込み、雨を避けるでもなく新八は膝を抱えた。
雨に溶けてしまえばいいのに。川に流れ込んで、海に出て。こんなちっぽけな人生を笑えたら。
「…酷い雨だな」
聞き覚えのある声に、新八は閉じていた目を開けた。銀色が、そこにあった。
ああ、迎えに来たんだと素直に新八は思った。紅の中心で舞っていた銀色と同じ色。
――死神だ。
早く連れて行って欲しい。悲しいのもくるしいのももう嫌だ。
震える手を伸ばし、死神の着物のすそを掴んだ。
「どうした?どこか痛いのか」
死神のくせに心配そうな声なんて出して、変なの。少しだけおかしくなって新八は咽喉を震わせた。
しゃがみこんだ死神は、濡れそぼった新八の髪を撫でて雨から守るように抱きしめてくる。
あたたかいんだ、不思議に思いながら新八は力の入らない腕を死神の背に回した。
おいていかないで。連れて行って。
ずっとずっと、お妙にも銀時にも言いたかった。
「なぁ、俺今ここに落ちてんだ」
かわいそうだろ?何とかしてやりたいと思うだろ?
死神の声が耳に心地いい。今にもなくなってしまいそうな意識をどうにか繋ぎとめ、新八は頷いた。
「今度はお前が俺を拾ってくれよ」
もう一度頷いたのが相手に伝わったろうか。抱きしめる腕が強くなったのを感じながら、新八は幸せな夢に落ちた。
夢の中で、姉上が遅くなってごめんね、と微笑んだ。