トシ受けで10のお題より続きです。読んでない方はここからどうぞ 最新のみはここから
ごほ、咽喉の奥から血がこみ上げてくるのに咽て、土方はひとつ咳をこぼした。
じわじわと広がっていく痛みと出血に伴う貧血で、意識が遠ざかりそうになるのを堪えつつ、目の前に立ちはだかる敵を睨み上げる。
嬉しそうに口端を上げながら斬りかかってくる相手は、かなりの剣の使い手だと知っている。
勝てるとは思わない。ただ、時間を稼ぎたかった。死ぬわけにはいかないから。
あまりの疲労と痛みに閉じてしまいそうになる目を、しゃがみこみそうになる足を叱咤しながら土方は剣を構えなおした。
「ねぇ、土方さん。賭けをしようか」
楽しそうに高杉は土方へと声をかけてくる。怪訝そうな表情を隠そうともせず、荒くなりつつある息を整えながら土方は目の前の男を見た。
闇色の瞳が煌めき、奇妙なほど赤い唇が言葉を綴る。
「真撰組連中が戻ってくるのが先か、あんたの血が流れきるのが先か」
「…は、勝負にならねぇな」
息を吸うだけで痛む傷口を片手で押さえ、それでも土方は嘲笑うかのように高杉を睨み付けた。
傷を覆っている包帯は半分以上紅く染まり、そこに触れる土方の手すら色づいてきていると言うのに不敵な表情は崩さない。
「お前にゃ俺は殺せねぇ」
「…ふふ、いいね。ますます殺したくなった」
すぅ、と目を細めて心の底から楽しげに笑う隻眼の男に、土方は舌打ちした。
口調とは裏腹に、今にも気を失ってしまいそうなのだ。血を流しすぎたのは否めない。
勝てなくてもいい。しかし、負けてしまうわけにはいかない。ひとつ息を吸って土方は刀を構えなおした。
幾度か、剣を交える音が屯所の庭へ響く。
「目を閉じちゃあいけないなぁ」
「・・・っ」
くら、揺れる視界に軽く頭を振り、顔を上げた土方の懐に、既に男は入り込んでいた。
しまった、思う間もなく思い切り傷口を膝で蹴り上げられ、耐え切れないほどの痛みが土方を襲う。
声を上げることもできずに土方は地面へ沈んだ。あまりの激痛で呼吸すらままならない。
「殺されちゃうかもよ?」
横たわった土方を覗き込むかのように、高杉は嗤った。
倒れこんだままの身体に跨り、爪を立てて傷口を抉れば、土方から声にならない悲鳴が漏れた。
痛みにか出血のし過ぎでか、痙攣すらし始めた身体を放って、高杉は自分の爪についた血を舐め上げた。
「まずい」
口元に血をつけて、おかしそうに嗤う。関係ない者が見たら恐怖に凍り付いてしまうだろう悪魔のような微笑みだった。
新しいおもちゃを見つけたような子供のような顔で高杉は自分の下の青年に目をやった。
が、土方は限界を超える痛みにとうとう気を失ってしまったようで、目を閉じたままぴくりとも動かない。
「もう終わり?思ったよりも早かったなぁ」
落胆を隠そうともせずに立ち上がり、足のつま先で土方を軽く小突いたが意識を取り戻す様子はない。
力なく投げ出された土方の手の先で、得物が月明かりを反射し高杉の目を焼いた。
転がったままだった刀を取り上げ、高杉はその切っ先を土方へと向けた。
それでも目を覚ます様子はない。完全に墜ちてしまっているようだった。
「俺の勝ち、っと」
土方の咽喉元へと狙いを定める。きっと綺麗な紅い花が咲くだろう。
想像に咽喉を鳴らし、乾いた唇を己の舌で湿らせる。土方の血の味がした。
「…ゲームオーバー」
数瞬後には土方の頚動脈を貫くはずだった刀を、高杉は音を立てて鞘へ戻した。
高杉の耳は、大勢の足音と男たちの声を拾っていた。思ったよりも時間をとられていたようだ。
おそらくは斬り捨てたままの門番に気づいた誰かが、真撰組へ連絡したのだろう。
すばやく周囲に目を走らせ、塀は乗り越えられそうなことを確認すると、高杉は今だ倒れたままの土方に目をやった。
「ラッキーだね、土方さん。けど」
ずるり、血まみれの力ない身体を引き上げ、屯所の庭にある池へと目を向ける。
「早くしないと死んじゃうかも」
「賭けはまた今度ね」
池へ沈んでいく土方を一瞥もせず声をかけ、高杉は身軽に塀を乗り越えた。
喚きたてる男たちの声を背に、死神は暗闇へ姿を消した。
ずるり、池から引きずり出されるその姿に、背筋が凍った。
「早く、医者を!」
そう叫んだのは誰だったのか。
力無いぐんにゃりとした身体が、地面へと横たわる。その身体から滴ったしずくが地面を濡らし色を変えた。
口々に名前を呼び、喚きたて、隊士たちに動揺が走る。
ぎくしゃくと上手く動こうとしない身体を動かし、近藤は横たわる土方の傍に跪いた。
「トシ…?」
返事は無い。それどころか触れた頬は恐ろしいほど冷たくて。
「…っ!」
頭の中でぐるぐると、今までの出来事が浮かぶ。
帰ってくるとき、煙草買ってきてくれ。
ああ、買ってくるって言ったよな、でも忘れちまったからお前怒ってんのか?だって仕方なかったんだみんなが俺を急かすから。
お前がいなくなるわけが無いのに、早く早くとまるでお前がどっかに行っちまうから急げって。
あ、と開いた口から声にならない悲鳴が漏れた。ついで泣きたくなんてないのに、勝手に涙が出た。
ウソダウソダウソダ。嘘嘘嘘。
畜生、擦れた声で唸り近藤は噛み付くように土方へ口付けた。生きているなら必ずあるはずの呼気を発しない、色の無い唇に。
気道を通すように土方の首を仰のかせ、息を吹き込む。何度も何度も。
「馬鹿、息をしろっ!」
濡れた睫毛はピクリとも動かない。緩やかな鼓動も、今は感じ取れない。
どうしようお前がいなくなったら。この世界はこんなにも暗い。
一人で歩いていけないほどに、弱ってしまう。
”帰ってきたら話をしよう。大事な話だ”
そう言っただろうが。何も言わせないで一人で行ってしまう気か。許さない、そんなの許さない。
「トシ」
名を、呼ぶ。もう一度俺にお前を返してくれ。あの時も俺の声を聞いて帰ってきてくれたんだろう?
だから、もう一度。
もう一度、だけでいい。頼むから。
何度目かわからない口づけを交わし、息を吹き込む。
己の涙が土方の頬まで零れて、まるで土方が泣いているかのように見えた。
ごめんな、近藤さん。
そんな、風に。
嫌だ嫌だ嫌だ!!
聞き分けのない子供のように、叫びだしそうになった時。
ごぼっ、小さな音を立てて土方の咽喉が鳴った。
ひゅ、と微かに、けれど確かに聞こえた呼吸の音に、情けなく震える声で名を呼ぶ。
遠くから引きずられるように駆けてくる初老の医者が目の端に見えた。
ここじゃ思うような治療ができない、と医者は若い者を何人か引き連れて土方を連れて行った。
他の面々も口々に土方の名を呼びながら後に続く。応えてくれ、そう願いながら。
とりあえず息は吹き返したが、楽観出来る様態であるわけも無い。
なるべく動かさないように、そっとそっと車へ運ばれていく土方を祈るように残された真撰組の隊士たちは見ていた。
肌蹴られた寝着の間から、水に濡れたせいで薄まってはいるが、血に染まった包帯が見えた。
「いい加減にしてくだせぇ」
冷たい声に、近藤は振り向いた。声にも増して、恐ろしいほど表情を消した沖田がそこに突っ立っていた。
「土方さんがこんな簡単に命を捨てようとすんのは、ココに近藤さんがいるからですか」
ふざけんなよ、吐き捨て沖田は燃えるような目で近藤を睨み付けた。
いつも飄々としている彼からは想像できないほどの豹変ぶりに、こくり、近藤は息を呑む。
沖田と知り合ってからはじめて、こんな目を向けられた。まるで、憎まれているような、殺意さえ滲ませた。
「もし、…もし」
ひゅう、とひとつ息を呑んで沖田は唇をかみ締めた。赤くなった瞳で、それでも我慢しているのか涙の膜は張っていない。
「あの人が、いなくなったらっ」
俺はあんたを許さない。
八つ当たりだと自分でも気づいているのだろう。悔しげに顰められた眉が、そう語っている。
「総…」
「…すんません。頭、冷やしてきます」
駆け出していく沖田を、近藤は止められなかった。
その代わりにか、何人かが沖田の後を追う。間違いなく撒かれてしまうだろうが。
沖田の姿を追うように伸ばしかけた手を胸元に握りこみ、近藤は震える息を吐く。
確かな恐怖を感じてしまったことをごまかすように、何度も何度も。
それを心配してか、こちらに目を向けてくる山崎に手を振って、近藤は人気の無い屯所内に上がりこんだ。
山崎は気遣いのできる男だ。しばらくは放っておいてくれるに違いない。
その気のきく部下だから、なぜ近藤がこんなに参っているのかを慮って誰も近づけないでくれるだろう。
部屋に戻ると今までの騒動がまるで嘘だったかのような静寂が近藤を包み込んだ。
明かりも灯さず、近藤は壁伝いにずるずると座り込む。疲れた、心からそう思う。
しばらくは自分を落ち着かせようと深呼吸を繰り返した。が。
やっぱり駄目だ。近藤は目を閉じた。
トシ。お前がいねぇと、俺はこんなにも情けない男に成り下がっちまう。
『情けねぇこと言わないでくれよ、大将』
呆れた土方の声が聞きたかった。鋭利な刃物のような視線に射抜かれたかった。
『近藤さん』
名前を――呼んで欲しかった。
トシ、祈るようにその名を呼ぶ。震える己の唇にそっと手をやった。
初めてのキスは、冷たく血の味がした。
いい天気だった。
だからというわけでもないだろうが、次の日あっさりと土方は目を覚ました。
病院の白いベッドの上、点滴をつながれてはいたが、前回よりよほど顔色はいい。
「土方さん!」
「副長っ…!」
ゆるり、周囲を見回して。ぱちぱちと瞬きを繰り返したかと思うと土方は小さく咳をした。
咽喉が渇いているのだろうと、山崎が水差しを乾いた口元に持っていく。手元が震えていたのを、誰がからかえたろうか。
土方はそれを、少しだけ口に含みゆっくりゆっくりと咽喉を潤した。
ひとつ息をつき、もういちど周囲を見回した土方はぼそりと。
「タバコすいてぇ…」
目を開いた土方が最初に発した言葉に、今か今かと周囲で目を覚ますのを待っていたほとんどの隊士たちが床に突っ伏した。
:沖田:
「本当に、馬鹿でさァ」
「だから悪かったって」
「どうせ土方さんは近藤さんのことしか考えてないんでさぁ。鬼」
「…総悟」
はぁ、溜息をつき土方は入り口に立ったままの沖田を見やった。なかなか近づいて来ようとしない彼に、罪悪感がつのる。
心配させたという頭はあるのだ、確かに。でも仕方がないではないかとも開き直ってしまいたくなる。
あれは不測の事態だ。前回と違って近藤をかばったわけではないし、死んでもいいとも思っていない。
心配をかけられたほうはたまったもんじゃないんだろうが、でも。
「俺のことなんか思い出してもくれないんですかィ」
昔から自分の後ろをついてきていた沖田は、悪態こそつくがいつも土方に置いていかれるのを怖がった。
それが、ただの兄弟のような家族のようなものでなく、恋愛感情だと知らされたのは最近のことで。
正直まだ、土方は沖田への対し方に戸惑っていた。しかも近藤と土方の間に嫉妬しているという。
どこの、どんな関係に見えるというのだと一度殴ってやったが、それでも沖田は考えを改めなかった。
しかし、沖田は可愛い弟分であり、そう簡単に手を放せるわけがないのは火を見るよりも明らかで。
「そんなに近藤さんがいいんですか」
「だから、別に俺はっ…」
否定しかけた土方は、沖田の真剣な顔に口をつぐんだ。
「そうだな。フェアじゃねぇな」
お前がまっすぐ向かってきてくれてるってのに。
諦めたかのように溜息をつくと、土方はまっすぐ沖田を見て口を開いた。
「あの人は、俺の夢なんだ」
「…夢」
「ただの田舎もんだった俺をここまで連れてきてくれた。だから」
「だからって、あの人のために死ぬんですか」
「総悟」
困ったように、まるで子供をなだめるように。それでもきちんと沖田に目をやって土方は首を振った。
「俺がそんなに弱いと思うか」
「思いません。土方さんは強い。だから」
だから、怖いんでさぁ。
震える声でそういった沖田に、土方は頭を掻いた。慰めるのは俺の性分じゃねぇんだが。
言い置いて、手で沖田を招いた。ゆっくりとまるでネコのように警戒しながら近づいてきた沖田がおかしかった。
ようやく傍まで来た沖田の色の薄い髪の毛に手をかける。さらさらとそれは指を通った。
「教えてやる、総悟。夢は叶うんだ」
「…知ってます」
「叶えたあとなら、お前とともに生きるのもいいと思う」
がば、俯いていた顔を勢いよく上げ、沖田は土方の顔を凝視した。
照れくさいのか、少しだけ赤い顔をした土方は、目を逸らしている。
「…本当に?」
かすれまくった震える声でも許して欲しいと沖田は思う。だって、手に入るわけがないと思っていた。
あんなに堂々と近藤に宣戦布告していたって、土方がこちらを向いてくれるわけがないと知っていたから。
「夢が叶ったら、俺と」
「ああ。そのときもお前がそう願うなら」
馬鹿なことを、沖田は怒りさえ感じた。欲しくて欲しくてたまらなかったのだ。
いらなくなるわけなんてないのに、それでもこの人は俺に逃げ道を用意する。
手に入ったら雁字搦めにして、もう二度とどこかに行かないようにずっとしまっておかなければ。
そうでなければまた、勝手に逃げ出そうとするかもしれない。
「あとどのくらいですか、一ヶ月ですか、一年ですか」
「そうだな、じゃあとりあえず一年で」
「我慢できやせんよ…」
「俺が好きなんだったら我慢しやがれ」
頬をふくらませた沖田に穏やかに笑って見せて、土方は背をベッドへ預けた。
少しだけ疲れた様子を見せた土方に、沖田の表情が曇る。
「まだ調子悪いんですか」
「いや、平気だ。先生もそろそろ退院していいといっているし」
手を振って見せたが、不安そうな顔をしたままの沖田に土方は苦笑した。
昔は自分が心配してやるばかりだったのに、いつの間にか立場が逆になっている。
「総悟」
静かに名を呼ぶ。
「はい」
「俺の夢、叶えてくれるか」
「…はい」
力の限り。
頼もしい沖田の言葉に、土方は微笑んだ。
:近藤:
病室から出てきた沖田に、少しだけ躊躇して近藤はその場に立ち尽くした。
沖田も近藤に気づき、はっとした顔を見せる。
あの時からあまり会話をする機会もなく、なんとなく気まずい空気が流れた。
しかし、その沈黙はあっさりと沖田から破られた。
「土方さん、起きてますよ」
「…おう」
今日まで怖くて見舞いに来なかったことを責められているのだろうか、身構えた近藤だったが
それ以上沖田が何もいわないのを見て身体から力を抜いた。
じっと見られているのはわかったが、ぎくしゃくと身体を動かして土方の病室の前に立つ。
「近藤さん」
何だ、応える声は震えなかっただろうか。
しかし、いつになく柔らかな雰囲気をまとった沖田にあまり危機感はなかったのも事実だった。
「俺、近藤さんの夢叶えますから」
「あ?」
「絶対、真撰組大きくしますから」
「…ああ」
ほっとして力強く頷くと、沖田は笑った。久しく見なかった、幼い笑顔だった。
それじゃ、踵を返して足取りも軽く歩き去る沖田を見て、つくづく敵わないと思う。
あんなに思いつめていた様子の沖田を、あっけなく救ってみせる土方に。
そして。
がらり、近藤はドアを開けた。会話が聞こえていたのだろう、そこにはきちんと身体を起こした土方がいた。
「近藤さん」
呼ぶだけでとことんまで落ち込んだ自分に、前を向かせてくれる声に。
かすれた声で、しかししっかりと自分を見つめる黒い瞳に、近藤は「おう」と応えるので精一杯だった。
「すまねぇ近藤さん」
不本意そうにそう呟く土方は、賊が高杉だったと近藤に頭を下げた。
頷き、近藤は途中まで追わせていたが見失ったと土方に告げる。
「…お前が本調子だったら負けやしねぇよ」
慰めにもならないが近藤が一応気を使って見せると、ふんと鼻を鳴らして土方は「当然だ」と言ってのけた。
一応絶対安静を言い渡されている身だが、前回に比べたらかなり土方の回復は早かった。
いや、そう見せていただけだったかもしれないが、それに近藤は乗ることにした。
何も、そこまで土方を追い詰めるつもりなどない。
元気だ、と本人が言うならそうなのだと信じることにしたのだ。
もしあの時、一緒に出かけたがる土方を連れて行っていたら。
たった一人で、怪我を抱えた身で血に飢えた獣と一戦交えることも無かったのかもしれないのだから。
判断ミスだ、そう自分を責めることしかできなかった近藤にとって、今の土方の様子は救いでもあった。
「高杉のことは心配すんな」
殺せなかった土方を再び襲うのではないかと、近藤は山崎を筆頭に、隊士たちに高杉の行方を追わせている。
今のところ芳しい成果は出ていないが、それでもよかった。
ただ、真撰組に追われていると、高杉が認識しさえすれば。
そうすれば自分から真撰組に近づこうとする愚行はおこさないだろうから。
「ああ、そうだ。これな」
タバコを差し出した近藤に、土方の目が輝いた。しかしそれはあっさりと引っ込まされてしまう。
「退院したらやるからな」
「じゃあ退院する」
拗ねた様子を隠そうともせず、本当にベッドから起き上がろうとする土方に、慌てて近藤はその肩を抑え付けた。
それが傷に響いたのか、小さく声を上げ、土方はベッドに逆戻りとなった。慌てたのは近藤だった。
「す、すまんっ」
覗き込んだ近藤の目に映ったのは、眉を寄せ、目を閉じる土方の顔。
それはあきらかな痛みに耐えるもので。頬は紅潮し、声を我慢しているのか噛締められた唇は紅を注したように赤い。
あのときの、冷たいキスを思い出してしまい、近藤は息を呑んだ。
そんな自分を戒めようと頭を振って不埒な考えを追い出そうとするが、思い出すのは赤く冷たい唇で。
目の前の、痛みにほどけた唇から漏れた吐息のような声が、近藤の耳をくすぐった。
どきり、簡単に高まった鼓動に近藤は愕然とした。
「せ、先生をっ」
平気だ、土方の声は耳に入らなかった。ただそこから逃げ出すことばかり考えていた。
飛び出すように病室から出て、たくましい看護婦に怒鳴られながら近藤は駆けた。
やばい。まずい。
駆けながらぐるぐると頭を回るのは、先ほどの土方の顔。
どうしよう、今俺は、たしかに。
あいつに、トシに、欲情した。
自分の悲鳴で目が覚める、なんて本当にあるのだとはじめて知った。
落ち着かない呼吸をなだめつつ、近藤は額に浮いた汗を拭う。
「…トシ」
音にしてしまえば、我慢出来なかった。顔を覆っていた手を恐る恐る、しかし明確な意図で寝着の中へ潜り込ませる。
いけない、とわかってはいる。けれど。
近藤さん。
夢の中で切なげに、つらそうに、潤んだ瞳で名前を呼んだ土方に、確かに欲情を覚えた。
好きだ、と告白されたわけではない。それでも近藤はいつからか、土方の秘めた想いに気づいていた。
隠そうとしていたことも知っている。だからこちらも普通に接していた。
いや、接せざるを得なかったのだ。
近藤には想う女がいた。守らせてもらえないほどに強くて暴力的だが、弟思いの美しい人。
それを、土方も知っていた。近藤も隠そうとはしなかった。
別にそれで、土方に自分のことを諦めさせようと考えたわけではない。欠片もそんなつもりがなかったかと言われれば嘘になるが。
ただ、一緒にいるのは楽しかったから。土方の想いを無碍にすることで離れられるのがいやだったから。
だからそれとなく何気なくいつもいつも美しい人の話題を口に乗せた。
辛そうな顔一つ見せることなく、ただ少しばかり呆れた様子で、土方は近藤を嗜めた。
本当は――胸が痛かったとしても。
「…最低、だ」
汚れた手のひらをぼんやりと眺めながら、近藤は呟いた。
こんな、痛い。こんな、辛い。
ずっとずっと、心のうちだけで想いを飼っていたのか。だから、笑ったのか。
ああ、やっと解放される。
斬られたとき、おそらく土方は安堵したのだ。醜い嫉妬という化け物を傷口から吐き出して。
執着に近い形で近藤を想っていた土方は、あの時斬られて死んでしまったのか。
近藤を見つめる黒い瞳は、やがて他の誰かに向けられて。
そして。
「嫌だ」
ぶるり、背筋に立った怖気に、近藤は知らず呟いた。どうしたら、いい。
土方が離れる、そう考えただけで辛くて悲しくて立っていられない。
だったら。
自分のものに、してしまえばいい?
「や、やだっ、近藤さっ」
口付けてこようとするのを避けて、土方は顔を背けた。怖い。
消灯時間もとっくに過ぎて、看護婦たちも見回りを終わらせた夜半過ぎ。
昼間からずっとうとうとしていたせいか、熟睡できずにいた土方のもとへ近藤は訪れた。
驚いたが、少しばかり嬉しそうな表情を見せた土方に、いきなり男は覆い被さってきた。
何があったのかなんて知らない。焦った様子の近藤は、怪我をした土方の制止をものともせず、その抵抗を抑え付け。
信じられない、眼を見開いて土方は目の前の男を見た。
「…トシ」
かけられた声は、今まで聞いたことがないほどに切羽詰って熱い。動けないように抑え付けられた手首がじんじんと痛んだ。
なんで、とかどうして、とかそんな声を出したように思うが首筋に男の顔が埋められ、噛み付かれた所為で音になったかどうかは怪しかった。
濡れた感触が首へ伝わり、舐められたのだと知る。かっと頬が上気した。
怒鳴ってやろうとしたが、聞こえてきた言葉に声に成り損ねたそれは咽喉奥でつぶれた音となった。
「俺が好きなんだろう?」
こうなりたい、なんて望んではいなかった。ただそばでずっとこの人を見ていたい、そう願っただけだったのに。
「ひっ、ぐ」
肌蹴られた寝着の隙間から、熱い舌が土方の胸を辿る。色づいた部分に噛み付かれ、悲鳴を上げた。
思考がぐちゃぐちゃでまとまらない。ただただ悲しくて怖くて――辛い。
もうやめて、もういやだ、何度懇願しただろう。
ぼろぼろと勝手に流れ落ちる涙が土方の声を奪い、近藤の乱暴な愛撫が力を取り去っていった。
呼吸すら困難になり、咳き込むようにしか空気を取り込めなくなって土方は目を閉じた。
とうとう近藤に貫かれ、血を吐くような痛みに襲われる瞬間も、土方は頑として目を開かなかった。
自分を組み敷く男が近藤だと信じたくなかった。
その行為が終わりをむかえたころ、空は白み始めていた。
「すまない」
「…」
ぐったりと病院のベッドに横たわった土方の顔色は、シーツと変わらないくらいに白かった。
無理に開かれ発熱してしまったのか、頬だけが不自然に赤みを帯びている。
「本当に悪かった、けど」
俺はお前が。言いかけた近藤をさえぎるように土方は口を開いた。
「なかったことにしようぜ」
掠れた声で告げられ、近藤は呆然と目を見開いた。土方は目をあわせようとしない。
泣きすぎて腫れ上がった瞼を億劫そうに持ち上げて、ただ瞬きを繰り返している。
「なんでもない、こんなの。だから」
なかったことにしよう。もう一度小さくつぶやき、土方は目を閉じた。さすがに体力も限界だったのか、穏やかとはいえない寝息を立て始める。
まるで、近藤と会話するのを拒絶しているかのように。
この行為も――好きだった気持ちもなかったことにしようと土方は言っているのだと気づき、近藤は床にへたり込んだ。
たまらなく泣きたかった。
せめて後始末だけはさせてくれ、と土下座をせんとばかりに近藤は頭を下げた。
具合が悪いのに嫌がっているのを無理に抱いてしまったのだ、顔も見たくないだろうがせめてそれだけはと。
土方は少し逡巡する様子を見せたが、自分でもきついと思っていたのだろう。やがて頷いてくれた。
電気を消したままにしてくれ、と小さな声は土方から発せられた。
暗闇の中で二人、口も利かずにいるのはたまらなく苦痛だったが、土方のほうがずっと苦しいだろう。
そう思えば泣き喚いてしまいそうだった近藤も、唇をかみ締めるだけでどうにか耐えられた。
月明かりでぼんやりと見える土方の肢体は、きっと傷ついている。
もしかしたら土方は、羞恥だけでなく近藤に罪悪感を持たせないために電気をつけさせなかったのかもしれない。
名前を呼びたかったが、土方のまとう空気がそれを拒絶していた。
次の日、本当は退院するはずだった土方が熱を出したと病院から連絡があった。
勇んで迎えにいこうとしていた真撰組の面々は、がっかりした様子を隠さなかった。
理由を知りすぎているほど知っている近藤は、罪悪感もあり何とか仲間たちを慰めようとしたが、
こちらを見ている沖田の、冷たく鋭い視線を感じ、思わず視線を逸らしてしまった。
それだけで沖田は何事か感じ取れたのだろう。踵を返すとその場から姿を消した。
知らずつめていた息を吐き出し、近藤は額に浮かんでいた汗を拭う。恐らく沖田はこれから、土方の元へ向かうのだろう。
土方は昨夜のことを沖田に語るだろうか、と考えて近藤は首を振った。
語るはずがない。男が男に犯されたなどと。しかも、憎からず思っていたはずの相手からなどと。
信じていた相手から裏切られた苦しさを、土方はこれからも一人で抱えていくのだ。
そこまで考えて近藤は自嘲を唇に乗せた。
その苦しみの原因が何を言うのだ。
もともと、すべて自分の所為ではないか。
土方が叶わないと思い込んでいた想いに苦しんだのも。
敵から傷を負わされたのも。
指名手配犯に殺されかけたのも。
ようやく普段どおりに戻れるはずが、熱を出して退院が延びたのも。
「全部、俺の所為だ…」
ぽつり、誰にも聞こえない程度に近藤はつぶやいた。
本当は罰されたかったのかもしれない。土方に泣きつかれた沖田に、切り刻まれたかったのかもしれない。
そうすれば今の胸の奥でじくじくと疼く痛みは、楽になっただろうから。
「トシ」
それでもお前を失いたくない。
酷いことをしたとわかっていても、もう顔など見たくなくても。
きっと離れていけないだろう土方を思う。なぜなら真撰組には近藤だけではない、仲間が待っているのだから。
本当に少人数で吹けば飛ぶような集まりから、ようやっとここまで来たのだ。
真撰組を大きくして、下手な横槍じゃびくともしない組織を作り上げようと。
そう最初に誓い合った、仲間たちを見捨てることなど土方にはできないと知っている。
そんな土方に甘え、こちらに向けられる好意に気づかない振りをし続けた。
好きな女がいたから。仮令、報われなくとも。
それでもはっきりとやめてくれと言わなかったのは、土方を傷つけたくないという大義名分があったからだ。
しかし、今回のことで近藤は自覚した。
傷つきたくなかったのは己のほうだと。気まずい思いをしたくなくて、物わかりのいい友人のままでいたくて。
最後には心だけでなく、身体まで文字通り傷つけてしまった。
「近藤さん…?」
いつの間にか傍にいた山崎が不思議そうに声をかけてくる。きっとこれからの指示を仰ぎたかったのだろう。
それでも近藤が振り返らずにいたら、何かを感じ取ったのか山崎はその場から仲間たちを連れ踵を返した。
本当に自分にはもったいないほど気のきくやつだ、改めて近藤は部下の存在に感謝した。
そんな部下がもし100人いたとしても、土方一人には敵わないのだ。
きっと山崎が死んでも、冷静に仇が取れるだろう自分を近藤は知っていた。
ではもし、土方が死んだなら――?
あのとき、己を庇ったまま、儚くなってしまったとしたら。
ぶるり、震える身体を両手で抱え込み、近藤はその場に膝をついた。嫌な汗が額に浮かび、床に水の球を落とす。
身体中から力が抜けて、叫びたいような喚きたいような。体験したことのない感情に胸が痛んだ。
「…ふっ」
落ち着けと自分に言い聞かせながら、必死に呼吸を整えた。掠れた思考の中、仲間たちがいなくて良かったとぼんやり思う。
もし、こんな状態を見られたら即効で病院行きだ。
そこまで考えて、今だ病院で苦しんでいるだろう土方の姿が頭に浮かんだ。
もしや土方はこんな思いをずっとしていたのだろうか。仲間が死んだら、近藤が死んだらと。
誰にも何の弱みを見せず、嫉妬だけでなく、恐怖や動揺をずっと独りで抱え込んで。
気づけば近藤は立ち上がっていた。一瞬膝が笑ったが、気合で乗り切る。
「何してんだ、俺ぁ…!!」
自分を思い切りぶん殴ってやりたい気分だった。けれどそんな時間すら惜しい。
勢い良く庭へ飛び降り、草履を突っかけて走り出した。
早く早くと気ばかりが焦って、何度も転びかけながら、近藤は走った。
「総悟…?」
医者が制止するのを無視して病室に飛び込めば、騒ぎに起きたのかきちんと居住まいを正した土方がいた。
病室の外から五分だけだ、と叫ぶ医者の声。それを聞き流し沖田はベッドの脇に寄った。
意識ははっきりしているようで、訝しげに沖田を見る土方は顔色以外は全く普段と変わらなかった。
「退院できないんですか」
「俺は平気だって言ったんだけどな…」
何を言っているんですか!呆れを滲ませた医者の怒声がドアの外から聞こえ、土方は苦笑を漏らした。
ひとつ息を吸うと、沖田は逡巡することなくずっと気になっていた問いを口にした。
「昨日、何かあったんですか」
ぴく、と土方の肩が揺れる。それだけで答えをもらったも同然だった。
昨日、この人はあの人と。そう思うだけで嫉妬に目の前が真っ赤に染まったが、弱々しく首を振った土方に沖田の意識は引き戻される。
「違うんだ、俺が、きっと、」
もの欲しそうな顔をしていたから。だから優しいあの人は。
真っ青な顔で、それでも発熱のせいか頬の辺りだけ上気させて土方は呟いた。
それは、沖田に言っているのではなく、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
「…絶対、近藤さんの所為なんかじゃない」
疲れたようなため息をこぼし、土方はそれだけ言って目を閉じた。
と同時に入り口のドアがノックされ、沖田に退室を促す医者の声が聞こえてきた。
その声にゆっくりと沖田は立ち上がり、目を閉じたままの土方を見降ろす。痩せてしまった弱々しい憧れだった男を。
本当は犯してやろうと思っていた。具合の悪さなんか関係ない、衣服を剥いでその肌に所有の証を刻み付けてやろうと思った。
だが土方はそれでも近藤を許した。いや、はじめから恨んでなどいなかった。
全部自分の所為だと何があっても自分が悪いと覚悟を決めてしまっているのだ。
もし。沖田が激情に任せてその身体を引き裂いたとしても、それすらも土方は自分の所為だと胸を痛めるだけなのだろう。
こういう人に酷いことをして、結局帰ってくるのは本人にだ。
糾弾してくれない、詰ってもくれない。それはかなり辛いし、痛い。
「…早く治してくだせェ」
小さく頷いた土方の髪をそっと撫で、沖田は病室を後にした。
沖田が病室を出ると、思いがけず近藤と鉢合わせした。医者はといえば渋面を隠そうともせずその背後に控えている。
口元で、駄目だって言ってるのにとか何とか言っているのが聞こえた。
少なからず驚愕し目を見開いた沖田に、近藤は息を切らせたまま今度は視線を合わせてきた。
迷いのない目だ、沖田は素直にそう思った。あの頃の――三人一緒だった頃の潔い黒い瞳。
久しぶりに見たそれに訳もなく口元が綻んで、沖田はため息をついた。
結局、自分はこの人も好きなのだ、と。
突然微笑んだ自分に戸惑っているのか眉を寄せた近藤。
沖田は大きく息を吸い込んで、まるで怒っているかのような表情の目の前の男に視線を据えた。
あの人が望まないから――責めることはしない。でも。
「決着つけてください」
そうでないなら今度こそ、手足を縛り付けてでも自分がもらう。
声にならなかった言葉が聞こえたかのよう、近藤が息を呑み――やがて頷いた。
こんこん、かすかなノックにまどろんでいた土方の意識が引き上げられる。
今さっき沖田が戻っていったばかりだと思ったのだが、とくっつきたがる瞼を無理やりに開ければ。
「…トシ」
今、一番会いたくない男がベッドの脇に立っていた。
ひゅ、土方の咽喉が鳴る。なかったことにしようといったのは自分だが、昨夜の今日でそうできるほど土方には余裕がなかった。
頭ではそうしようと努力したが身体が悲鳴を上げ、今日の検診で高熱を出し退院を先延ばしされてしまったくらいに。
無意識に逃げをうとうとする身体を近藤は悲しげに見ていたが、土方を怯えさせるのは本意ではない。
その場から一歩も近づこうとせずに、口を開いた。
「帰ってきたら話をしようって言ってただろ…?」
それは、少し前に近藤が土方に語ったものだ。忘れていたわけではないがすっかり頭の隅に追いやられていた。
もう随分な時が経ったように思っていたが、たった数日前の出来事。
なんだ、と近藤はおかしくなった。
悩むまでもなく、もともとそのつもりだったんじゃないか。
「お前がなかなか帰ってこれねぇから、俺が来たんだ」
今度は俺の所為だけどな、頭をかいて気まずそうにひとりごちる近藤は、昨夜とは別人のようにすっきりした顔をしていた。
その表情に、凝り固まっていた土方の肩から力が抜けた。昔の。昔のままの近藤だったからだ。
ずっとずっと、焦がれていた逞しい幼馴染。目の奥がつんと痛くなって、土方は瞳を瞬かせた。
それでも声をかけられずに、ましてや近づくことなどできず土方はじっと近藤を見つめる。
「もう遅いかもしれないけど」
いや、首を振り近藤は一歩土方に近づいた。
今度は土方は逃げようとしなかった。それに勇気をもらって更に近づく。
「お前に傍にいて欲しい」
これが土方と同じ感情かどうかなんて分からない。お妙に寄せる想いとも違う。
もっと凶暴で――熱い想い。
無理に引き裂いてでも、傷つけても傍においておきたい。
遅いといわれても諦められない。
呆気にとられたような表情の土方がいつもより幼く見えて、近藤はその思いを強くする。
「お前じゃなきゃ、嫌だ」
まるで子供のわがままみたいな言葉。それでもそれが、一番自分の思いを的確に表してくれていると思うから。
沈黙に耐え切れず、近藤はもう一度真摯な瞳で土方を見据えた。
思いが伝わってくれるといい、と願いながら。
「俺は…しつこいんだ」
今まで黙っていた土方がポツリ呟いた。顔は真っ赤で、でもそれは熱の所為ではない。
「そんな簡単に、想いは消せねぇよ…」
長い長い片思い。人生の殆んどをそれに費やしてきた。
苦しくて、悲しくて、痛くて、どうしようもなかった。やめられるものならとっくにやめていただろう。
それでも傍にいたのは、やめなかったのは、近藤だったから。
最後にはきちんとこちらを振り返って手を伸ばしてくれる彼だったからだ。
「トシ」
大きな暖かい手に、頬を包まれた。
笑う近藤が、嬉しい。いとおしい。
二度目のキスはかさついていて。
そしてとても暖かかった。
終わった!!待っててくださった方、本当にありがとう