良かった生きていたのね、すごく心配したのよ。
抱き潰さん限りの力でぎゅうぎゅうと力をこめられ、窒息するかと思った。
しかし何より、目の前の存在が信じられなくて新八は目を見開いたままだった。
「姉上…?」
自信なさげに呼べば、満開の笑顔が新八の前に降って来た。
じわりと目の前がかすんで、新八はようやく己が泣いていることに気づいた。
「なあに、ここ!臭いし狭い!」
かなり悩んだものの新八は、とりあえず今の保護者のようなものである銀時の元へお妙を導いた。
しかし、入ったとたんの声がそんなもので、びくりと銀時の眉間に皺がよったのを新八は気づいてしまう。
「あ、姉上。あの」
「新ちゃん、こんなところで可哀想に散々使われていたのね、私が来たからにはもう大丈夫よ」
「いえ、あの」
「今はね、お侍様の所にご厄介になっているの。とてもいいお方よ」
必死に言いかける新八の声を遮って、お妙は声を上げた。そのたびに剣呑になっていく空気に新八はおろおろするしかない。
お妙の想像するように、こき使われていたわけではない。むしろ、足手纏いなのに寝食の世話までしてもらっているのに。
そう言いたいのに声が出ない。新八は久しぶりに会ったお妙にすっかり圧倒されていた。
ああ、そういえば僕が姉上に勝てるわけなかった。
半ば諦めの境地に入り、あとで銀時や仲間たちへのフォローが大変だろうな、とぼんやり思う。
「もう我慢しなくていいの。お腹いっぱい食べられるわ」
「…っ」
ひく、と新八の咽喉が痙攣した。
お腹がすいてたんだ。だから。
『ほら、こっちにおいで。食べ物をあげよう』
『いくらでも食べられるよ。さあ、こっちに』
いやだ、どうして?お腹がすいてるだけなのに、どうして服を脱がなくちゃいけないの?
痛いよ、そんなところに触らないで。気持ち悪いよ、やめてヤメテやめてヤメテ…
「新ちゃん!!」
しかしやかましい女だな、銀時は気づかれないようにため息をついた。
まあ、こんな傍から見ても怪しい気配むんむんの場所に大事な弟がいたとなれば、世の母親はこんな反応をよこすものかも知れない。
見ろ、新八も困ってるじゃねぇの。おろおろしちまってまあ。
おそらくは銀時が機嫌を損ねはしまいかと、心配しているのだろう。時折向けられる視線を感じていた。
別にこんなことで女と喧嘩をするほど器の小さい男じゃないと安心させてやりたかったが、何しろ口を挟む隙間が無い。
とにかくお妙と名乗った新八の姉は、男と比べても遜色ないほどの度胸の持ち主ということは間違いなかった。
「もう我慢しなくていいの。お腹いっぱい食べられるわ」
おいおい、まるで俺たちが満足に食わしてやってないみたいじゃねぇか。
さすがに反論しようと銀時が顔を上げた刹那。
「新ちゃん!!」
悲鳴のような声と共に、真っ青を通り越して紙のように白くなった新八の顔が銀時の瞳に飛び込んできた。
細かく痙攣するかのように震える身体と、冷たい汗を浮かべた虚ろな表情。
ただごとではないと声をかけるが、新八はただぼんやりと突っ立っているだけだ。
「とにかく座れ」
ぎゃあぎゃあと騒ぐお妙に辟易し、銀時は半ば抱きかかえるようにして小さな身体をソファに座らせた。
触れたとたん、びくりと慄いた身体には気づかないふりをした。
「新八、大丈夫か?少し寝るか?」
小さく首を振り、新八は息をついた。苦しいのか何なのか、潤んだ瞳が訴えるように銀時を見つめる。
どくり、銀時の心臓が大きく跳ねた。新八に自覚はないだろうがそんな目をされたら男という生き物は勘違いするというのに。
しかし銀時を押しのけるように新八の手を掴んだ女の手に、昂ぶった気分はあっさりと霧散した。
「新ちゃん、大丈夫?具合が悪いのね、そろそろお暇しましょうか」
ようやく呼吸の落ち着いた新八に、お妙は当たり前のようにそう言った。新八が自分と共に来ると信じて疑っていないのだ。
「ちょっと待て、何言ってんだあんた」
さすがにそれは聞き捨てならず、今度は銀時が声を上げる。黙っててとばかりににらまれたがそんなものに構っていられるものか。
「新八はもう俺たちの仲間なんだよ。今更」
「後から出てきて何言ってるのよ、新ちゃんには私が必要なの。私は新ちゃんの家族なの!
家族と仲間とどっちが大事なのよ、私たちは血がつながっているのよ!」
譲らない意志の強い瞳に一瞬だけ怯んだものの。尚も反論しようとした銀時に、お妙は容赦なく噛み付いてくる。
「だいたい何で新ちゃんがこんなに辛そうなのよ!ここで酷い目に合わされたに決まっているわ」
「なっ、これはなあ…っ!」
言いかけて銀時はぐっと詰まった。何を言おうというのだ自分は。
――言えるわけがないではないか。
お前が目を放した隙に、新八は。
「何よ、言いなさいよ。言えるものならね」
銀時の葛藤を知らず、挑発するように言い募るお妙に銀時は拳を握った。まずい、と。
相手は女だというのに、殴ってしまいそうな自分を抑えるために。
新八はどんなに恐れているだろう、その事実が銀時の口からお妙に漏れてしまうこと。
一度ならず二度までも、その痩躯は傷つけられているのに。
あの時。雨に濡れた新八を温めようと風呂を沸かし、濡れた衣服に手をかけたとき。意識がないのに新八は銀時の手を掴んだ。
声にならない声は、確かに拒絶の言葉を形作って。
必死に首を振り、ぎゅっと瞑った瞼からじわりと涙がこぼれて。
うまく呼吸ができないのか、引き攣るような音が咽喉から漏れた。
そんな新八を抱きしめて、銀時は少し泣いた。
唇をかみ締める銀時の瞳に、不安げにこちらを見やる新八の顔が映る。
言いたくないのだ、当たり前だ。今まで必死に自分を守ってきた姉に、酷い事実を伝えたくないのだ。
けれど、銀時に噛み付くお妙を止めたいのだろう新八は、きゅっと唇をかみ締めるとお妙に声をかけた。
「なぁに、新ちゃん?苦しいの?」
新八の手を握りしめるお妙の手のひらに力がこもった。
心配げな瞳は、ずっと昔から自分へ注がれていたものだと新八は思う。
ずっとずっと、抱きしめて庇うようにして痛みから遠ざけてくれていた瞳。けれど。
それじゃ、駄目だともう新八にもわかっていた。
「姉上、ぼく、は」
たどたどしく、それでも今の自分の状態を伝えようと口を開く新八をお妙はじっと見つめている。
「落ちてたんだよ、だから俺が拾ったんだ」
口を挟んだ銀時を、はっとしたように新八は見やった。また。また、助けられてしまった。
それでもタイミングを逃した言葉はもう容易に口から出てはくれない。
「あのままじゃ危なかったからな。声かけてつれてきた。それだけだ」
物のように、弟のことを言われたお妙は一瞬激高しかかった。
が、繋がったままの手をぎゅっと新八が握ったために、その怒りは立ち消えた。
新八が小さく、でもはっきりと「助けてもらったんだ」と肯定したせいだ。
「…拾ってくれてどうもありがとう。でも新ちゃんは犬や猫とは違うの。連れて帰ります、構わないでしょう?」
感謝なんてひとかけらも感じさせない刺々しい口調。感謝よりも憎まれているといったほうが頷けるような。
「お礼はもう少し待ってください。私まだ働き始めたばかりだから」
「いらねぇよ、んなもん。それより」
新八を連れて行くの待ってくれないか、続けようとした言葉は再びお妙に遮られる。
「必ず御礼はしますから」
まっずぐに見つめられて、銀時は理解した。お妙は怖がっているのだ。
新八が自分から離れていくのを――何よりも。
「待ってください、姉上」
声を上げたのは新八だった。まさか、新八から反論が出るとは思ってもいなかったお妙が目を見張る。
まだ息が苦しいのか、その声は弱弱しかったけれど、新八の黒い目はまっすぐにお妙をとらえていた。
「僕、ここにいちゃ、だめですか」
「新ちゃんっ?」
「役に立ってないのはわかってます、でも」
新八は銀時を見やった。たたひたむきに。
「ここにいたい・・・です」
そこまで言われては、さすがのお妙も無理に弟を連れ出す気になれなかったのだろう。
幾度も頭を下げ、くれぐれもよろしくといいおいて、その場を後にした。
ただ、新八に「絶対に迎えに来るからね」と何度も言い聞かせていたが。
「良かったのかよ」
連れて行かせる気などなかったが、一応銀時が問えば、新八は小さく頷いた。
それは、ずっと自分の面倒ばかり見てくれた姉への決別とも等しかった。
それから数日。
表面的には何の変哲もない日が続いていた。
あの様子では翌日にでもお妙は乗り込んでくるかと思われたのに、となんとなく拍子抜けで、銀時も気の抜けた日々を過ごしていたのだが。
「銀時」
小さく桂に呼ばれて、銀時は面倒そうな顔を隠すことなく立ち上がった。それにつられて隣にいた新八の視線もあがる。
桂と銀時が人払いして会話をするときというのは、結構深刻な話が多いのをここにいる誰もが知っているのだ。
不安げに自分を見る新八の頭をくしゃりとなで、銀時は部屋を後にした。
「あの、お妙という女は大丈夫なのか」
「あ?」
ぴしゃりと襖を閉めたとたんに発せられた、桂の言葉の意味が把握できなくて、銀時は間抜けな声を上げてしまう。大丈夫というのはどういう意味だと。
そんな銀時に、呆れたよう桂がため息をついて言葉を続けた。
「あの女は新八の姉らしいな」
「おう」
「侍のところに通っているとか」
「・・・・・・」
そこでようやく、銀時は桂が言わんとしたことに気づく。そうだ、なぜ気づかなかった。
侍は、言わば銀時や桂たち攘夷派とは、相対するものだ。
攘夷派という立場を前面に出してお妙と会話はしていないが、隠していたわけでもない。
その事実にお妙が気づき、新八を取り戻さんと自分の主人に、この場所を教えたとしたら。
「やっべぇ、よ、な?」
「今頃気づいたか、腑抜けるのも大概にしておけ」
「うー…ん」
腑抜けていたつもりはないが、ここまで間抜けっぷりを晒した後ではなんと反論しても説得力はないだろう。
ため息をつく桂を見やりながら、銀時は頭を掻いた。
翌日、おつかいに出ようとした新八は、建物の入り口に立つ人数が増えている事に気づいた。
普段は一人しか立っていないそこに、二、三人の男たちが立って話をしている。
「おはようございます」
「おう、新八」
顔見知りの男に声をかけ、そのまま外に出た新八に、ぼやくような声が届いた。
「なんでいきなりこんな厳重警備になるんだ?」
普段は門番などしたことがないのだろう、面倒そうな様子を隠そうともせず一人の男が言った。
そんな男をなだめるかのよう、新八も顔を知っている男がその問いに返す。
「何でも侍がこの場所を知る機会があったらしくてな、桂さんと銀時さんがぴりぴりしてるんだよ」
聞くともなしに聞いていた会話に、新八は思わず振り返っていた。
それに、男たちは不思議そうな視線をよこすが、そんなものにかまっていられなかった。
今、何と言った?侍?この場所を知られた?
それだけで新八にはわかってしまった。
昨日桂が銀時を呼んだ訳も、戻ってきた銀時が困ったように笑ったわけも。
「あ…」
馬鹿だ。僕が。
きゅっと新八は唇をかんだ。
また、僕が迷惑をかけてしまった。